2018.01.01

 伊能忠敬・間宮林蔵が完成させた「蝦夷地沿海実測図」を手に、蝦夷地の内陸を踏査した幕末の探検家・松浦武四郎は、安政5(1858)年に蝦夷地踏査6回目を最後の探検として、幕府の蝦夷地御雇を辞職します。そして、1回目の蝦夷地探検から13年間に書き留めた日誌や地図の完成に専念することにしました。

 慶応3(1867)年に徳川慶喜が大政奉還し、武四郎が蝦夷地探検を終えてから10 年の歳月が経った明治元(1868)年、明治政府は、新しく開拓する蝦夷地のことをよく知る武四郎を開拓使の開拓判官として雇い入れます。

 武四郎は、アイヌ語のカタカナで記されていた地名に漢字をあて、蝦夷地を「北海道」と命名し、北方4島を含む北海道を11国・86郡に分け、その境界を定めました。これが今の14支庁管内の境界にほとんど残されているのです。弟子屈が属する国名は釧路国で、現在も「釧路国医師会」という名称や弟子屈の街を走る自動車のナンバープレート(釧路・北見)に旧国名の名残りがあります。

 武四郎はこの仕事を完成させた翌年、明治3(1870)年に開拓使の役人を辞職し ます。が、それにしても、普段目にする地図と逆で、今まで見えなかったものが見えてくるような感じがするのです。いかがですか。

てしかが郷土研究会(松橋)