2018.01.01

 人間はほかの動物と違い、望みがないと生きてゆけない厄介な生き物です。だから自分が暮らす世界で望みが全く断たれたと感じた者は、「心中天網島」の二人のように橋を渡り、死に場所を目指します。「心中天網島」のクライマックスでは、大阪天満の紙屋治兵衛と曽根崎新地の遊女小春は、どうせ添い遂げられぬのならと、慣れ親しんだいくつもの橋を渡りながら心中の場所を求めてさまよい歩きます。近松門左衛門はこの道行きを、橋の名前に二人の心情を重ねて七五調で描写しました。

 くいそぎ流れる蜆(しじみ)川。西にながめて朝タにわたり馴染んだ天神橋。天満天神の名のゆかり、まだ菅丞相(かんしょうじょう)と申したとき、筑紫に流され給ひしに、庭の梅花はかなしみて、遠い太宰府まで一飛びに、飛んで慕うたという梅田橋。あとに残った老松は、緑もあせた緑橋。刻れを嘆き悲しんで、はてに枯れたる桜橋。〉くじじとばばとの末までも、まめで添はんと契りしに、丸三年も馴染まずに、この災難に大江橋。〉〈天神橋を南へわたりおえれば八軒屋。家なみ多いこのあたり名の残るわけも知らないが、とにかく伏見の下り舟、着かぬうちにと先いそぐ。この世を捨てて行く身には、聞くも恐ろし天満橋。〉

 日本古典芸能「人形浄瑠璃」の名場面「名残りの橋づくし」の一部です。ふたりの体になじんだ橋は、この世とあの世をつなぎ、この世の苦界と世間をつなぎ、現世で結ばれぬ男と女をつなぐ結節点として近松は描きました。

 現在の「弟子屈橋」は明治35年に架橋された初代から数えて4代目で、昭和56年10月の竣工です。大正9年8 月8日の豪雨で初代の橋は流され、新たに架橋されます。3代目「弟子屈橋」が竣工したのは昭和10年11月17 日。それまでの木橋とは異なり、コンクリート製の近代橋でした。この橋を中心に彼岸此岸(ひがんしがん)の両方に世間と苦界とが同居し、湯の町が広範囲に形成されます。まさにこの橋は弟子屈の「つなぎ」の象徴でした。そして、この橋はいつの頃からか「親不孝橋」と呼び慣わされました。

 戦前、戦中、戦後のさまざまな世相の移り変わりを経て、この橋の界隈(かいわい)が大きく変わったのは、売春防止法の罰則が適用になった昭和33年4月でした。そして、川そのものの生命が失われたのは、昭和50年代初めの河川改修によってでした。河川改修以前の風情は、野趣にあふれる川の両岸で葦が風にそよぎ、乳白色を溶かしたような真っ青な水が滔々(とうとう)とおだやかに流れ、料亭「白鳥」の屋形船がいやがうえにも日本的な情緒を醸し出し、この地を訪れる人波は絶えず、筏(いかだ)乗りがその技を競い、水辺は人の生活と密接につながっていました。橋の上に佇(たたず)み、ただ川面の「ゆらぎ」を見つめているだけで、人の心に変化が訪れます。おのずと来し方行く末に思いが及び、新たな生き方を模索できる、そんな貴重な場でした。「ゆらぎ」は人の五感を静に深く刺激します。その刺激によって五感が敏感に働き、心の深奥に何かがもたらされるのでは、と思います。川の命は町の命そのものだったかもしれません。

 河川改修から30数年、その間、この橋の界隈は衰退を止めるすべとてなく、今日を迎えました。形骸(けいがい)と化した建物がかつてのにぎわいの墓標として、その姿をさらすのみです。それもまた、滅びという名の美学かもしれませんが。「夏草や/つわものどもが/夢のあと」

てしかが郷土研究会(加藤)