2018.01.01
歴史写真館NO.24 釧路集治監について一考
明治18年5月13日、熊牛外四ヶ村(塘路、虹別、弟子屈、屈斜路)戸長役場が塘路に開庁し、間もなく標茶に移転。それから半年後の11月13日、釧路集治監が標茶に設置されました。集治監とは現在の刑務所のことで、石狩の樺戸集治監、空知の市来知集治監に次ぐ北海道3番目のものです。明治34年に 網走に移転され、網走刑務所となります。
この時代、欧米列強は帝国主義であり、武力による領土拡張は自明の理でした。明治維新を成し遂げた日本もその潮流に遅まきながら船出し、ひたすら「坂の上の雲」を目指していました。富国強兵と殖産産業です。その明とは、真逆の暗闇が同じ維新政府によって実行された集治監制度です。開拓事業進展の基は物産の流通をはかること、そのためには北海道の東西、札幌−根室間の道路を開削することが最重要であり、その目的遂行のいけにえとして集治監が位置づけられました。「道路開削工事は困難な仕事なので、ふつうの工夫を用いると重労働に耐え難いこと、労賃が高いという問題があるから、集治監の囚人を使役すること。彼らは悪人だから、困難に耐えず死んでも監獄費の節約になり、賃金はふつう工夫の半分以下だから工事も安く済む…」(「金子堅太郎の巡視復命書」より要約)昭和27年、集治監が設置された場所、現在の標茶高校付近から、さびた鉄鎖に人ずつつながれた白骨や、手錠をかけられたままの自骨死体が、何百と数知れず発見されています。絶望の暗闇に息づき、果てていった魂の亡骸です。(※北海道の歴史より)
釧路集治監設置のもう一つの目的に、明治10年から始まっていたアトサヌプリの硫黄採掘作業があります。明治20年に安田鉄道(アトサヌプリ-標茶間)が北海道で2番目の鉄道として開通。飛躍的に硫黄の採掘量が増大します。1日に囚人300人を使役。過酷な労働と亜硫酸ガス、さらに栄養失調による水腫病により、わずか半年間で300人の囚人のうち145人がり患し、42人が死亡しています。 国道391号沿いの「池の湯林道」の看板がある付近に、仮監(外役所)が建てられていました。
一方、集治監設置という機会を好機到来ととらえた1人の男がいました。滋賀県・彦根の出身で、函館の商家に仕えていた野口彦三郎という人物です。彦三郎は、釧路地方では米が採れないからわらじが自給できないということを知っていました。全財産をつぎ込んでわらじを買い求め、船に積み込んで釧路に、馬に積み替えて標茶に入り、わらじを売りまくりました。このわらじ商法が大当たりし、商人としての基盤を築き、熊牛一の御用商人にのし上がりました。そして明治31年、弟子屈に御料局川上出張所が標茶から移ると、翌32年春には「野口商店弟子屈分店」を現在の商工会の向かいに建てました。(※弟子屈町商工会のあゆみより)
黎明期の弟子屈にとって集治監とは何であったのか、明と暗その両方を見る目は、今日的にも意義あることと思います。
てしかが郷土研究会(加藤)