2018.01.01

 江戸幕府の命令で蝦夷地を調査して歩いた松浦武四郎は、1858(安政5)年の4月中旬(現在の暦では5月下旬)に、屈斜路湖を訪れています。

(以下、太字は現代語訳より抜粋)

 

テシカガ〜ヒラヲロ(美羅尾)〜サツトモマナイ(礼友内)〜ヘリウ(美留和)を経て、クツチャロ(屈斜路)に到着。湖水を背景に家が建てられており、実にすばらしい景色だ。

 また「昨秋からの不漁で飢え苦しんでいる。老人や子供たちの顔色はとても悪い」とも書き残しています。彼自身も、手配していた食料が届いておらず不安を抱きつつ、翌日は風が穏やかだったので湖上からの調査を進めました。

 岸に沿って東に進むと、温泉に着いた。大きな池になっていて、底は大きな岩でその間から温泉が噴き出していた。ここにもニレの皮がたくさん浸してあった。そこに鳥が一羽いたので名を尋ねると、ヲユユケ(アカショウビンのこと)といい、この辺りには多くいるようだ。

 この記述は、現在の「池の湯」のことです。アイヌはオヒョウニレやシナノキといった樹皮から繊維を取り、さまざまな織物を編み出しました。その際の第一工程として、樹皮を柔らかくするために沼や湿地につけたのです。中でも、温泉はとても重宝がられました。池の湯は、峠を越えた美幌など近隣に住むアイヌからも人気が高かった場所だったそうです。そして、このときに詠んだ歌が碑となって湖畔に建ち、当時の様子を今に伝えています。

てしかが郷土研究会(斎藤)