2018.01.01

 弟子屈に馬が入ってきたのは、硫黄山から採れた硫黄を運ぶための400頭が最初でした。しかし、硫黄山に鉄道が敷かれると、その馬たちは道内に散らばります。その後、1902(明治35)年に御料局川上支所の小田切栄三郎所長が、新冠御料牧場からトロッター系(※1)の馬を導入して「貸馬仔分法(※2)」で繁殖されていきました。動物の扱いに不慣れな本州からの開拓者も、農耕や造材に馬の力を借りるようになっていきます。この過酷な作業をする馬たちの足を守るため、蹄鉄があります。

 更科源蔵さんの著書『移住者の原野一蹄鉄屋(かなぐつや)』に、大正の初めころ (1910年代)の様子が詳しく書かれているので、少し長くなりますが引用します。

 「土間になった半分の奥のほうには、鉄を焼く鞴(ふいご)をそなえつけ、その一部に鍛治屋とちがった、太いナラの大木を胴切りにすえつけた台の上に、鍛治屋より小型の金敷きをおいて、蹄鉄の工作場にしてある。…(略)

 大きなイチョウの葉形した削蹄刀で、のびすぎた蹄をけずりおとす。

 夏鉄(かてつ)という蹄鉄は、蹄の大きさにあわせて蹄鉄釘で蹄に固定、石や礫(こいし)で蹄がいたまないように保護するのだが、冬鉄(とうてつ)というのは、氷上蹄鉄ともいって、氷の上で蹄がすべらないように、氷にささるようにとがった爪をつけたものである。」

 

 やがて、ブルドーザーやトラックなどの大型機械が馬の代わりとなる昭和30年代(1950~60年代)まで、弟子屈には蹄鉄屋が10軒ほどあったとのことです。

 

※1 トロッター…速歩を得意とする馬

※2 貸馬仔分法…雌馬を10年間貸し与え、子馬が生まれると、その飼育者がもらい、その次に生まれた子馬を御料局に返して、馬の数を増やす。

てしかが郷土研究会(松橋)