2018.01.01

 昭和初期、鐺別は市街地から隔てられ、踏み分け道を通り丸太の橋を渡り、ようやく行き来していました。人の往来が増えることにより踏み分け道はやがて道路になり、青木貞行村長は馬車が渡れる程度の橋を鐺別川に架け、その橋を『桜橋』と呼びました。和人が入植する以前から鐺別では、アイヌの人たちが今でいう湯治をしていました。そのための小さな草掛け小屋がありまし た。それが近隣の人の口の端に上り、青木村長の父、元右衛門氏はその人々のために部屋を提供するようになります。それが青木旅館の始まりでした。観光地として脚光を浴びるようになったころ、青木旅館は『櫻花園』と屋号を改めます。

 順風に思えた青木村長の村づくりが頓挫したのは昭和18年。そのことを『弟子屈町史』は「青木村長の郷土愛あふれる村政は、村の先輩と協力して、観光地として又新しい開拓地として入地者の受入れに努力すると同時に、主蓄農村として確固たる地盤を築く為の、共同放牧場の設置経営に身をもって奔走する等、郷土を愛する人でなければなし得ない超人的努力は、時に熱心のあまり度を超したことによって不幸を招き、15年の間ひたすら村治に没頭した結実を見ることなく席を退き(略)青木氏はその年の10月不幸のうちに急逝され、激しい戦乱の渦の中に村葬がしめやかに行われたのであった」と記しています。「不幸のうちに急逝された」とは、軍都といわれた 旭川の未決の監獄に収監され、過酷な取り調べは村長の体をむしばみ、仮釈放後間もなく亡くなったことを指しています。では青木村長が「招いた不幸」とは、それを知るには戦時下という時代背景を理解することが不可欠です。昭和12年7月7日に北京の郊外「盧溝橋」で放たれた一発の銃声が「日中戦争」の始まりでした。12月13日、大陸の日本軍は南京を攻略。昭和15年9月27日、「日独伊三国同盟」の締結。昭和16年3月10日、改正治安維持法の公布。11月26日、ハル米国務長官が 日本側にハル・ノートを提示。12月1日、御前会議において、米・英・蘭に対し開戦を決定。12月 8 日、ハワイ真珠湾空襲、同時にマレー半島に上陸開始。昭和17年2月21日、食糧管理法が公布。3 月に木材統制法が発令。弟子屈では11月に「弟子屈森林組合」が設立され、青木村長は組合長を兼ねるようになります。牧場造成の際伐採された木材を地位を利用して横流し、つまり村営牧場の認可を得るため木材を賄賂として使ったとか、弟子屈のような小さな村の村営牧場にしては、あまりにも規模が大き過ぎるとかいうのが、青木村長にかけられた嫌疑でした。また、配給が支給されない困窮家庭に備蓄した食糧を配ったことが、食糧管理法に抵触したとの説もありました。莫大な裁判費用を捻出するため、残された家族は『櫻花園』の売却を決めます。結局、国鉄が職員の福利厚生施設として取得し「康生寮」と名を改めます。

 平清盛と同年に生まれ、源義経が平泉で藤原泰衡の背信により自害したのが、西行法師の死の前年です。西行法師は建久元(1190)年2月16日、河内国葛城山西麓の弘川寺で73年の波乱にとんだ生涯を閉じています。死を意識し始めたころ「ねがはくは/花のもとにて/春死なん/そのきさらぎの/望月のころ」と詠みました。如月の望月は旧暦2月15日、新暦では3月30日にあたります。お釈迦様の命日に死にたいとの願いです。水食に切り替え、いよいよ死期が近いことを悟った西行法師は、食を断ちその日を待ちます。「仏には/桜の花を/たてまつれ/わが後の世を/人とぶらはば」と詠み、その日とわずか一日違えて黄泉の国に旅立ちます。葛城山西麓では、桜の花が今を盛りに咲き誇っていました。(完)

てしかが郷土研究会(加藤)