2018.01.01
歴史写真館NO.28 湯の島蝦蟇伝説
昔、昔、その昔…。湯の島の地は、たび重なるクスリ川の浸食作用によって、他の陸地と切り離された小さな島でした。小島には小さな沼や湿地が散在していました。この島の小高い丘にぽつりとたった一軒のアイヌのチセ(家)がありました。夫の名はエシカ、妻の多はピココ、一人息子の名をモシリといい、近隣のコタン(部落)とは小舟で行き来していました。
生きるための日々の糧は、豊かな自然がすべてを満たしてくれました。クスリ川で魚を捕り、クマ・シカ・ウサギなどの野生動物は、食と共に衣になり春の山菜、秋の果実と自給自足の平和な毎日でした。四季の移ろいと共に生きる日々のなりわいであり、山川草木、生きているすべてのものに感謝を捧げる祈りの日々でもありました。そんなある日、エシカはいつものように猟を終え、チセ近くのけもの道を歩いていると、鎌首をもたげたシマヘビが口をカッと開き舌を鳴らし、今まさに獲物に飛びかかる寸前に出くわしました。シマヘビの前には何の異変も気づかない蝦蟇の親子連れがのんびりと歩んでいました。エシカは、とっさに持っていた弓の柄でシマヘビの首を強く打ちました。不意をくらったシマヘビはそそくさと草むらの中に逃げ蝦蟇の親子は無事助かりました。
こんな出来事があって3年。エシカの一人息子のモシリが突然、高熱を発し病に臥(ふ)しました。この病を治すには、マシュウトウのふもとにしか繁殖しない薬草の葉を摘み、煎じて飲ますしか治すすべがないと、知恵あるコタンの長老は言いました。エシカはマシュウトウ目指し暗闇の中、大急ぎで出発しました。東の空が白々と明け、マシュウトウにたどり着いたエシカは死に物狂いで薬草の葉を探しました。エシカの祈りにも似た思いがカムイに通じたのか、ようやく見つけることができました。薬草の葉を摘んだエシカが大急ぎでモシリの持つ川岸まで戻ってくると、確かに繋がっているはずの小舟が見つかりません。2、3日前、上流で降った大雨で川が濁流となり、流されてしまったのです。途方にくれ、なすすべもなくエシカが川岸に腰をおろしてしょんぼりとしていると、一人の仙人が現れました。仙人は「エシカよ3年前、わが子を助けてくれてありがとう」そう言うと仙人は突然何かの呪文を唱えました。すると、どこからともなく無数の蝦蟇が両岸に集まりました。蝦蟇の肩に蝦蟇がのり、そしてのった蝦蟇の肩にまた蝦蟇がのりました。そしてまるで天を目指すかのように蝦蟇の二本の柱が現れました。二本の蝦蟇の柱は、お互いに川の真ん中を目指して倒れ、川の真ん中で二本の柱は一本になりました。すると仙人はさらに大きく口を開き、息をその蝦蟇の柱に吹きかけると、あら不思議!蝦蟇の柱は虹色に輝く本物の橋になりました。
エシカは早速その虹の橋を渡り、チセに帰ることができました。薬草の葉を煎じ、モシリに飲ませると見る見るうちに顔色も良くなり、熱も下がって病は完治しました。
これは、弟子屈に伝わる『湯の島の蝦蟇伝説』という寓話です。昭和50年代の初めの河川改修により、釧路川の様相は大きく変わりました。それ以前、湯の島付近では大きく蛇行し、河原には葦が生い茂り、蝦蟇のコロニーが無数に点在していました。この寓話にヒントを得て、昭和6~15年にかけて湯の島にあった近水ホテル(旧三井観光グランドホテルの前身)の主人で釧路新聞の社長でもあった遠藤平吉氏が蝦蟇の木彫品を多数作りました。それが現在も町内に数点残されています。
てしかが郷土研究会(加藤)