2018.01.01

 弟子屈の林業は、明治の初め硫黄山から採れる硫黄鉱石を製錬する薪をかり出したところから始まりました。その後マッチ軸の製造などが細々と行われましたが、明治 30年代に入ると大都市では紙の需要が急増し、大手製紙工場が釧路にできます。この工場には針葉樹を広葉樹はドイツなどに輸出されました。

 切り出された木材は、原始的な木材搬送方法の流送で釧路まで下りますが、広葉樹は水に沈みやすいので、水に浮きやすい針葉樹と組み合わせ、筏に組むことで解決しています。流送は、昭和4年の釧路・弟子屈間の鉄道が開通するまで行われていました。

 明治30年ころから農業移民の手で開拓が始まります。しかし、農地からは現金収入がないので山稼ぎや流送の賃金で得る現金が唯一でした。

 木材業が盛んになると造材山で働く人たちの味増や米、酒やタバコなどの生活物資も必要となってきます。始めのころは木材業者が調達して飯場に運んでいましたが、造材帳場が発行する伝票を商店に持っていって品物を交換する方法で、弟子屈の商業が盛んになってきます。

てしかが郷土研究会(松橋)